『類経』では、「心は臓腑の主で、魂魄(こんぱく)を統括し、
意志を該(か)ねる。
だから・・・・・
・憂(ゆう:心配事)が心に動けば肺が応じ
・思(し:相手のことを思う)いが心に動けば脾が応じ
・喜(き)が動けば心が応じ
・怒りが心に動けば肝が応じ
・恐れがこ心に応じれば腎が応ず
この五志は心だけが使う。」
また、「情志の痛められし所、五臓に各々属す所ありといえども、いずれども其のよるところは、則ち心に従って発せざる無し」
それゆえ、神明を主す心の生理功能が正常であれば、精神が奮(ふる)い立ち、思惟が明敏になるが、逆であれば失眠、多夢、憔悴(しょうすい:やつれる事)ひいては譫狂(せんきょう:たわごと)昏迷などになる。
その他、神志を主る心の生理功能は血脈を主る心の生理功能と密接な関係にあり、血液は神志の活動の物質的な基礎である。
血液を主る生理功能を具えているからこそ、心は神志を主る功能を具えている。
それゆえ、血脈を主る心の功能が異常であれば、必然的に神志の改変が現れる。
心に関する、志、液、体、竅について・・・・・・・
心の志は喜である。
心の生理功能が情志の「喜」と関係があるからである。
蔵象学説は、外界の情報が情志の変化を引き起こすのは、
五臓の生理功能が化生するためとみなすので、
五志を五臓に分属させる。
五志のうち、喜は心を標識にし、情報のフィードバックとして
良性の刺激を与え、気と志、営気と衛気(えき)をよく通じ
させる。
ただし、喜楽が度をこせば、心神が消耗され、納めておくことができず傷つけられる。
神志を主る心の生理功能の状況から分析すれば、たま過剰と
不足の変化あり、一般に、神が過剰になれば笑いが止まらず。
神が不足れば悲しくなる。
但し、心は神明を主るので、喜が心を傷つけるばかり、五志が
極まりすぎれば、心神を損なう。
なんか・・・・確かにって気がするね(笑)
※参考にさせていただいたHPは「漢方医学基本文献と用語」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ken-hari/13news.htm